「続・リップスティック 〜 それぞれの場所へ 〜」

   10 母親(2)

 小鳩は走っていた。手にもった携帯電話からは、キューティーハニーのテーマが鳴りつづけている。電話の呼出音で、相手の感情が判る、科学的には、全く根拠の無いことだが、その時の音は、確かに怒っている様にも聞こえたのだから不思議である。部屋を飛び出し、階段で一階に降りる、突き当りまで廊下を走り、T字路を左に折れると、観音開きのガラスドアが見える、そのドアを、手で押すというより、体当たりに近く飛び出し、屋根の無い連絡通路を渡って、木造の居住棟から、鉄筋の生活棟へ移った。食堂の前を通り抜け、南側の階段を駆け上がる、踊り場の自動販売機の前で談笑する少女たちが、驚いたように、一瞬、話を止めた。2階、3階、4階、そして、屋上、給水塔の柱にもたれかかるように背中からぶつかり、2、3回呼吸を整えて、ようやく小鳩が着信ボタンを押すまで、その呼出音は鳴りつづけていた。
「・・・もしもし」
「小鳩!小鳩なのね、ああ、よかった、どっかに電話置き忘れちゃったのかと思ったじゃない・・・」
「大丈夫、ちゃんと、持ってる」小鳩は、まだ、息が切れていた。おそらく、これから始まるであろう話は、部屋で、まして奈美のいる前では出来ないだろう。
「それはそうと小鳩、あなた、ママに隠してることがあるでしょう?」
「・・・・・・」小鳩の嫌な予感は、的中した。
「合宿のこと、あなた、大事なこと、隠してない?」
「合宿は・・・今月末、河口湖で・・・」「そんなことをいってるんじゃないの!」園子の声に強く遮られ、小鳩は思わず電話を落としそうになった。
「合宿・・・男の子も一緒なんですってね・・・」
「・・・うん」
「どうしてそういう大事なこと黙ってるの!?」
「・・・ごめんなさい、でも、向こうで合流するだけで、行き帰りは別だし・・・、その、宿舎だって別れているから・・・」
「あたりまえよ!」小鳩が汗をかいているのは、何も走ったせいだけではない。だが、その汗も、まもなく涙に変わりそうなほど、小鳩の顔は歪んでいた。
「とにかく、ママが明日、もう一度先生のところに行って、合宿は不参加にしてもらいますから」
「そんな!」
「そんな、じゃないでしょ」園子は小鳩に言い聞かせるように続ける。
「あのね、ママはなにも、男の子と合宿に行くことに反対してるんじゃないの、小鳩だってもう高校生なんだから、そんなことがあったっていいわよ、そりゃちょっとは心配だけど、みんながいる中で、間違いなんかおこるわけないんだし」
「・・・・・・」
「でもね、だったらどうしてママにウソなんかつくの? ママはそれを怒ってるの」
「・・・・・・」
「とにかく、今回のことは、小鳩のルール違反なの、わかる?」
小鳩は、うなだれたまま、口を真一文字に閉じて聞いていたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「・・・・・・じゃない」「え!?」
「そんなこと、ママには関係ないじゃない!」その叫び声に、自分の心臓が高鳴るのが聞こえる。
「小鳩・・・」
「そうよ、男の子も一緒よ、だからどうしたって言うの? 関係ないじゃない!」
「小鳩!? 私は何もそこまで・・・」
「何がルール違反なの? ねえ、どうして、私のルールは私が決められないの?」
「ああもう、合宿なんて、黙って行っちゃえばよかった! 私がどこにいようが、ママになんてわかりっこないもんね」
堰を切ったように喋りだした彼女は、もう、自分でも抑えようが無い。言いたいことも、言いたくないことも、考えるより早く口から飛び出してしまう。
「ママはいつだってそう、何かしようとすると、必ず反対反対って、私、いつだって我慢してた」
「あ、あのね・・・」
「だから私、家を出たのよ。なのになんで!? これじゃ変わらないじゃない! どうしていつもそうやって勝手に決めるの? いつまで私を閉じ込めれば気が済むのよ!」
「小鳩・・・お願い、聞いて・・・」
「私は籠の鳥じゃないのよ! どうして私に、小鳩なんて名前つけたのよ!」
小鳩だって、しまったとは思っている、言ってはいけないことを言ってしまったと。だが、だからといって、抑えられないこの感情を、どうすればいいのだろう。
「ああそう、そこまで言うのなら、ママはもう知らないわよ、男の子たちにキズモノにされちゃっても、助けてあげないからね、せいぜい、貞操帯でもつけていくことね!」
「何言ってんのよ、バッカじゃないの! そんなことあるわけ無いじゃない、もしあったとしても、ママになんか、絶対泣きついたりしないんだから!」
お互いがお互いを傷つけ合う、どうしようもなく悲しいのに、止めることができない。電話を切ってしまえばよいのか、でも、そうすると、何か電話よりも大事なものが切れてしまいそうで、その見えない絆にすがり付くように、2人はただ、もう意味をなさない、ただ辛いだけの言葉を、並べ続けるしかなかった。
 その会話は、神様のいたずらだろうか、遠くで鳴り出した雷に電波を妨害され、強制的に途切れた。やがて降り出した夕立の中、小鳩は給水塔の下で、もう声のしない電話を握り締めたまま、泣き続けていた。

   つづく

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