「続・リップスティック 〜 それぞれの場所へ 〜」

   14 海の色

 日曜日、都内某所にある画廊の3階では、毎週、絵画教室が開かれている。平日のそれとは違って、ここでの生徒は、普段、仕事をしているサラリーマンや、学生が中心だ。時間は、午後1時から4時までの3時間、だが、熱心な生徒は、早ければ12時前にもやってきて、キャンバスに向かったりもしている。
「それでは、どうぞ、先週の続きから始めてください」
悠は、ここの講師と言うことになってはいたが、黒板にむかってどうこうということはなく、ただ、自由に描かせていればいいだけだった。生徒から求められれば、そこにアドバイスを与えたり、具体的に描いて見せたりする。生徒は6人、おっと、その生徒の後ろにちゃっかり座っている藍と、彼女に抱かれた朱二を数えれば、全部で8人ということになる。
「先生」「ん?」生徒の一人が、悠を呼び止める。水彩画を描いている、大学生の青年だ。
「今度は、海の絵を描きたいんですけど・・・」
「海か、いいねえ」悠は彼に歩み寄っていく。彼の画用紙には、まだ、何も描かれていない。
「海の色って、どんな色でしょうか」
「それは難しい質問だなあ・・・」悠は笑いながらパイプイスを持ち出し、彼の隣に座る。
「ねえ」「はい?」「君はどうして、海を描こうと思ったの?」
突然の質問に戸惑いながらも、彼は画用紙を見つめながら、ゆっくりと話し始める。
「僕は、大学でウィンドサーフィンのサークルに参加していて、夏には毎年、仲間と海へ行っていたんです」
「それは、楽しそうだね」「はい!」
「でも、今年は、研究が忙しくて、参加できそうにないんです」
「それで、海の絵を?」
「はい、その絵で紛らわそう、とかいうんじゃなくて、もし、どうしても海に行きたくなるような絵が部屋にあったら、僕はきっと、研究だって、もっともっとスピードアップさせて、少しぐらいは、時間が作れるんじゃないかと思うんです。だから・・・」
「うん、じゃあ、どうしても行きたくなるような海の絵を描こうか」「はい!」

見れば、彼のパレットの上には、1つの色が調合してあった。
「これが、君の、海の色?」「う〜ん、何か違うような気がするんですよね」
「それはね、きっと、大きさが違うんだよ、こんな小さなパレットじゃ、とても海なんかにはかないっこないね」悠はそういって立ち上がり、少し辺りを見渡してから、休憩用に用意されている湯のみ茶碗、その下に敷かれている、お盆を持ち出してきた。
「さあ、ここでたっぷり、海を作ろう!」「ええっ!? ここでですか?」とまどいながら、青年もどこかワクワクしている。
「海といえば、青だろ」そういって悠は、お盆の上に、青のチューブをぶちまける。
「そうですかねえ、それは海に入らない人の理屈ですよ、海はですね、遠目で見るより、もっといろんな色をしているんですよ」
「へえ、例えば?」「日本の海岸は、砂が黒いから、時々灰色や緑色に見えることもありますけど、光の具合によっては、白や、黄色、それから、茶色っぽく見えたり、でも基本的には、海の水も透明なんです」言いながら青年の手で、次々と色が足されていく。
「透明は・・・どうしようかな」少し考えてから、青年は水入れの水を、直接お盆に注ぎ込んだ。
「でも、どこまでも透明ってわけにはいかないだろ、僕なんか水に落ちたとき、周り中真っ白だったぜ」
「それは、落ちたときの泡じゃないですかね、だったら白をもう少し足しておいてくださいよ」
いつしか周りの生徒たちも、手を止めてその不思議な作業を眺めていた。
「天気はどうだった?去年の海」「そりゃもう、快晴ですよ、日差しが痛いくらいです」
「それじゃあ、太陽の色も足しておこう、それから、まだ、何か色が見えるか?」
「他にですか・・・あとは、貝殻くらいですね、そうだ、後輩の女の子がね、桜貝を集めていたんですよ、見て見てって見せに来るからね、僕、おもわず、何カワイコぶってんだよって、からかっちゃったんです、そしたら彼女怒って、それ全部海に投げ捨てちゃって・・・」
「それは悪いことをしたね」「はい・・・」「じゃあ、桜貝の色も混ぜておこうか」「はい!」
「それから・・・そうだ、君はどんな格好をしている?」
「僕ですか? サークルのユニフォームですからね、みんなおそろいの、黒地に赤線の入ったウェットスーツです」
「ふむふむ、じゃあ、その色は、人数分入れておこう」「そうですね」
とまあ、そうこうしているうちに、いつの間にか、お盆の上には、たっぷりの"海"が出来上がっていた。
「さあ、描くぞ!」「はい!」
いきなり、悠が画用紙の真ん中に、でっかく絵の具を塗りたくった。
「せんせい〜、僕の絵なんですから、あんまり手を出さないでくださいよ〜」
「いいじゃないか、ちょっとくらい」「よくないですよお」
傍から見れば、どうにも遊んでいるようにしか見えない。2人が競い合うように走らせる筆は、いつしか画用紙を飛び出して、その下の画板まで、海の色で溢れ返っていた。

「まぁったく、いいかげんな授業なんだから・・・」帰り道、藍があきれたように言う。
「そうか?」「そうよ、よくあれで生徒が集まるよ・・・」
「それはそうとねえ、悠さん、海、行きたくない?」
「海? まだ5月だよ」「大丈夫、別に泳ぐわけじゃないんだからさ、ね? あんな話聞かされたらさあ、どうしたって行きたくなるじゃない」
「ふ〜ん」「何?」聞き返す藍に、なんでもない、と、悠はスタスタと先を歩き出した。
「何だ、大成功じゃん」悠はそうつぶやいたが、藍には聞こえていないようだった。

   つづく

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