「続・リップスティック 〜 それぞれの場所へ 〜」

   36 違和感

「恵理ちゃん、聞いたよ、辞めちゃうんだってね」店頭に花を並べていた恵理子に、パートタイムの副島奈津子(そえじま・なつこ)が後ろから話しかける。
「はい、突然ですいません」
「しかし、恵理子がいなくなると、寂しくなるなあ」
「本当ですか?」
「ああ、花屋のくせに、華がなくなっちまう感じだ」
「店長〜、それは失礼じゃないですか・・・」
「なっちゃん、これからも頑張ろうね」「こんなときばっかり!」
その金曜日、朝日生花店は、いつもどおりの賑やかさだった。
「恵理子、何があったか知らないけど、まあ、頑張れよな」
「はい!」恵理子が、力強く応えた。恵理子は、朝から悩んでいたはずなのだが、仕事をしている、そして、いつもの楽しい仲間に囲まれている間は、そのことを忘れられた。だが、その時間も終わりの時が近づく。事務所で、店頭用のエプロンを外し、それをきれいに、机の上にたたんだ。しばし感傷的に、そのエプロンを見つめ、よし、と一つ気合を入れ、店長のところに、最後の挨拶に向かおうとしたその時、事務所のドアが開いて、夕方から交代で店に入る、留学生の女の子が入ってきた。
「あ、恵理子さん、おはようございます」
「よう、ヤンファ、おはよう」そう明るく答えて、それから、そのままの調子で続ける。
「あたしさあ、今日で、このお店、辞めることになったから」
「そうなんですか!」
「ああ、突然で悪いんだけどな」
「どこか、具合でも悪いですか?」
「いや、そうじゃないんだけど・・・」恵理子が苦笑する。
「残念です、でも、私は恵理子さんが好きだから、またお店にきてくださいね」「ああ」
「そうだ、なあヤンファ、お前、中国人だよな?」
「そうですよ」
「ファンチェンって町、知ってるか? あれ、ちょっと違うかな、ファンチョン?」
「それをはっきりしてくれなくては、わからないですよ」ヤンファが笑う。
「そうだよなあ・・・、えと、ファンチェ・・・ファンチュエン、確かそうだ、ファンチュエン!」
「ファンチュエン・・・ですか」
「西の方、砂漠の辺にあるって言ってた」「ごめんなさい、わからないです」
「そうか・・・うん、じゃあいいや、あたし、自分で地図で調べてみる、なあ、どんな字、書くんだ?」
「ファンチュエンでも、字はたくさんあります」
「でももしかしたら、砂漠の町なら、ファンは「黄」かもしれません」
「黄でファンって読むのか?」「はい」「よし、あとはチュエンだ」
「ファンだって、違う字かもしれませんよ」「いいから、チュエンって字は?」
「そうですねえ・・・」そういって、ヤンファが紙に、次々に漢字を書き出してゆく。全、拳、犬・・・それを恵理子が、ひとつひとつ、黄という字とあわせていく。組み合わせたところで、わかるわけはない、だが、その一つで、恵理子の手が止まった。
「なあ、ヤンファ、これって・・・!」紙に、「黄泉」と書かれている。
「はい、それもファンチュエンですよ」
「そうじゃない! これは中国語で、どういう意味だって訊いてるんだ!」
「それは確か、日本語でも同じだったと思います」
「黄泉の・・・国」「はい、天国のことです」
「恵理子さんは、ファンチュエンに行きたいのですか?」笑って答えるヤンファ、だが、恵理子は呆然と、その2文字を見つめている。どういうことだ?嫌な予感が、恵理子の頭を駆け巡る。忘れかけていた、朝方までの違和感、それと同じ痛みが、不意に襲い掛かってきた。
 次の瞬間、恵理子は事務所を飛び出していた。バッグを持つことも忘れて、駆け出してゆく。
「おい、恵理子どうした!」店長が驚いて声を掛けるが、恵理子は振り向くことなく、そのまま走り去っていった。
「なんだよ、あいつ、せっかく花束用意したのに・・・」

「どういうことなんだ!」走りながらも、恵理子の頭は混乱していた。地図にも載らないような町、そして、そこから来たという勇輝、当たり前のように理解していた勇輝の言葉が、恵理子の中で、急速に揺らぎ始める。恵理子は、勇輝の言葉、出会ってから今まで、いくつも重ねてきたその言葉たちを、必死に頭の中から呼び起こす。彼がいることは、事実なんだ、それだけは、間違いない。だが、その当たり前の確信でさえも、全てが夢のように現実味をなくし、消えそうに弱い灯火を、勇輝の言葉でなんとかつなぎ止める。

「なあ、お前、あんな所で、何してたんだ?」
「決まってんだろ、修行だよ、修行! 見てわかんなかったか?」

「へえ〜、なんだ、いいのもってんじゃんか」
「うん、俺の師匠からもらった、大事な帽子なんだけど・・・」

「こんなに思ってくれる友達がいるのに、どうしてそいつは逃げたんだよ!」

「あたし、勇輝が好きなんだ! 追い出せるわけないじゃないか!」

「あいつらともさ、話してたんだ、いつか、自由に空を飛びたいねって」
「黄色い太陽に向かってか?」「ああ」

「何で・・・」恵理子の足が、どんどん加速していく「何でそんなこと知ってる!」
「間に合ってくれ!」恵理子はやがて全力疾走になり、無我夢中でアパートに駆け戻った。

「勇輝!」乱暴にドアを開き、室内を見渡す。「勇輝!どこだ!」
だが、室内に、勇輝の姿はなかった。ベッドの上の布団が、きれいにたたまれている。恵理子が大慌てで飛び出すと、隣の家で洗濯機を回していたおばさんが、驚いて声を上げた。
「どうしたの?恵理ちゃん」
「あ、ねえ、今日、ここ、あたしの部屋から、男の子が出て行きませんでしたか?」
恵理子に詰め寄られ、おばさんが逃げるように目を逸らし、そして考える。
「・・・ああ、そういえば、昼過ぎだったかな、変なマジシャンみたいな格好をした子が、出てくるのを見たけど・・・」
「それです! どこに向かったかわかりますか?」
「さあ、そこまでは・・・」「そうですか・・・、はい、ありがとうございます!」
再び駆け出そうとする恵理子、その彼女を、おばさんが後ろから呼び止めた。
「あ、でも、恵理ちゃん・・・」おばさんが、不思議そうな顔を浮かべる。
「それ、確か・・・女の子だったよ」
その言葉に、恵理子の表情が凍りつく。一瞬間をおいて、恵理子が再び、ありがとうございましたと、大きく頭を下げた。そして、アパートの門を飛び出した。
 おばさんは、どこに向かったかわからないといったが、なぜか恵理子には、それがどこか、わかるような気がした。そして、その場所へ向かって、恵理子は再び走り出した。

   次回、いよいよ最終話です。

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