「続・リップスティック 〜 それぞれの場所へ 〜」

   5 陽光

 5月、快晴、絶好の行楽日和である。連休は終わってしまったのだが、それでもこんな日には、どこかへ出かけたくなっても当然だろう。ただ、いくら陽気が良いからって、5月に海というのは、ちょっと早すぎはしないだろうか、そう、その海岸にも、あまり人影は見られなかった。ただ一ヶ所、10人ほどが集まっている、三池安奈(みいけ・あんな)の周りを除いては。
「あちゃあ〜、また雲っちゃったよ。」
磯村雅史(いそむら・まさし)は、ファインダーから顔を上げ、恨めしそうに、空を見上げた。
「すいませ〜ん、また光線待ちで〜す!」アシスタントの号令に、スタッフが手早く待機体制に入る。安奈もまた、水着の上からガウンを掛けられ、日焼けを避けるために、パラソルの下に退避した。普通、グラビアの撮影などであれば、曇ったときには、その時なりに、撮るべき写真というのもあるのだが、今回はたった1枚のポスター撮り、しかも、スポンサーの希望が「青空の下で」というのだから、天候待ちは、止むを得ないだろう。
「安奈、大丈夫? 疲れてないか?」
マネージャーの宮部雄一(みやべ・ゆういち)が差し出した、麦茶の入った紙コップを、安奈は軽くうなずいて受け取った。「飲むんじゃないぞ、口を濡らすだけだ」念を押す宮部に、わかってるわよ、と、目で笑って見せて、口に含んだそれを、砂の上に吐き出した。
「ごめんな、もうちょっとの辛抱だから、それにしても、今日は暑いなあ」
「暑いのは、宮部さんだけでしょ」安奈にからかわれると、確かに上下スーツという、あまり砂浜には似つかわしくない格好をした宮部が、ハンカチで汗を拭いながら、照れたように笑う。
「いやあ、俺さあ、上着脱ぐと、忘れてきちゃうんだよねぇ〜、こないだもさ、電車の中に、携帯とか手帳とか、大事なもの全部入れたまま忘れちゃって・・・」
苦笑いを浮かべながら話す宮部の話を、安奈もまた、楽しそうに聞いていた。
「あ、そうだ、この間の写真集、初回注文数出たよ、なかなか好調だよ、増版だって狙える」そう言って、宮部はクリアファイルの中から、資料を取り出して安奈に見せた。安奈には、その数字が、どれほどすごいことなのかがピンとこなかったのだが、宮部が「好調」だというのだから、素直に喜んでおけばいいのだろう。
「いいか安奈、今日の仕事はな、すごく大事なんだ。あの磯村っていうカメラマンな、今はまだ無名だけど、密かに、将来のホープって言われてる。今しっかり印象付けておけば、あとできっと、彼と組んで大きな仕事ができるからな。まあ、ポスター撮りなんて、これ自体は小さな仕事だけどな、頼んできたのも、どっかの冴えない旅行会社だし・・・」
「宮部さん、ダメ・・・」
突然のアシスタントの声に、宮部はビックリして振り返り、ようやくそこに、今回のスポンサーである、"冴えない旅行会社"の営業さんが来ているのを思い出した。
「あっ・・・」言葉に詰まる宮部の変わりに、スミマセン、と、安奈が頭を下げる。いいよいいよ、と笑ってくれたその営業さんを見て、安奈もついに、こらえきれずに笑い出してしまった。あまりのバツの悪さに、苦笑いを浮かべた宮部は逃げ出すようにパラソルの外へ立ち上がり、まぶしそうに空を見上げた。まもなく雲が切れる、撮影が再開できそうだ。
「ずっと、こんな日が続けばいいのにな・・・」目を細めて、水平線を見つめながら、安奈は誰にも聞こえないような声で、そうつぶやいた。

 見渡してみれば、世の中には、なんて笑ってる人たちが多いのだろう。通りでも、公園でもレストランでも、とにかくどこででも、人は誰かしら、笑っているものだ。開放的な海辺にそんな人たちがいたとしても、それは当然かも知れないが、その開放的とはまったく逆の環境、例えば塀の中でも、やはり、笑っている人はいるようだ。
「葛西く〜ん、買ってきたよ、お待ちかねの、モ・ノ・」
「なんですか、気持ち悪い・・・」紙包みを手に、ニヤニヤしながら近づいてくる田所茂久(たどころ・しげひさ)に、葛西孝生(かさい・たかお)は、明らかに不信そうな目を向けた。田所から受け取った包みを開いた葛西は、その中身である本の表紙に「三池安奈ファースト写真集」の文字を見つけ、あわててそれを包みに戻した。
「だめですよ、先輩! こんなものが子供たちに見つかったら・・・」
「バ〜カ、職員室にあいつらが入るわけないだろう」
「だからって・・・、それに僕は、こんなもの興味ないですからね!」そういって孝生は、その本を包みごと、机の上に投げ出した。
「あっ、そう・・・、じゃあ、俺一人で見るかなあ」そういいながら、田所はその包みを拾い上げ、わざとらしく、孝生のそばで読み始める。孝生はそっぽを向いたまま、無理やり資料に目を落とすが、隣で田所がページをめくる音と、そのたびに小さく発せられる「おおっ」だの「ワオ」だの歓声がどうにも気になって仕方がない。
「いいかげんに・・・」たまらず孝生が振り向くと、田所は見開きページをこっちに向けて、ニヤニヤしながら立っている。
「ここは仕事場ですよ! とにかく、こんなものは没収します!」孝生が写真集を奪い取ると、田所は「ああっ」と、おどけて悲しそうな声をあげた。
「ま、夜番の時にでも、ゆっくり見ろよ、なっ」そういい残して、田所は、見回りへと出て行った。1人残された孝生は、その本を、引き出しにしまい・・・また引き出しを半分まで開けて、それから大きく首を振って、引き出しを閉じた。
「あ〜、今なんか隠したぁ!」廊下の向こうから、面接を終えたばかりの南雲亜希子(なぐも・あきこ)が駆け寄ってくる。「また面倒なのに見つかっちまった・・・」孝生は絶望的に頭を抱えた。

「よ〜し、雲がきれるぞ、撮影準備!」
磯村の一言に、スタッフが一斉に動き出した。スタイリストが安奈に駆け寄り、メイクを直している間にも、レフ版が広げられ、カメラを三脚ごと覆っていたビニールシートが外される。安奈が立ち上がり、磯村の指示した立ち位置に戻った瞬間、待望の光線が、あらゆる物を、白く染め上げた。アシスタントが、露出計を持って安奈に駆け寄る、スタイリストが時間ギリギリまで前髪に手を加え、それから、磯村の合図で、全員が退避した。最後に、安奈の足元に砂が撒かれ、スタッフの足跡が消されて準備完了。
小気味良いシャッター音が、陽光を全身にあびた少女を、波のような不規則さで包み込んでいった。

   つづく
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