|
「続・リップスティック 〜 それぞれの場所へ 〜」 6 同居(1) 恵理子の朝は早い。仕事のある日は、朝5時に目覚ましを掛けている。ただ、彼女の場合は、目覚ましが鳴る前に起きてしまうことが多いのだが、その日はどうも、眠りが浅かったらしく、止めてもまた鳴る目覚ましが3度目の朝を告げるまで、起き上がることができなかった。全身に得体の知れない痛みが走り、寝ぼけながらも起き上がろうとする恵理子を、荒っぽく現実に引き戻した。 朝食は必ず食べる、それが1日の活力になる、これが恵理子の決まり事だ、だが、今日はなんだか食欲が湧かない、とりあえず牛乳を温めようとカップに開け、電子レンジにセットした。 恵理子の不調の原因は明らかだった。全身が痛むのは、彼女が固いフローリングの上で寝たせいであるし、袋にパンパンに詰め込まれたファーストフードのゴミが、食欲不振の原因であることも明白だ。しかし、それら全ての元凶は、目覚ましがリンといおうが、レンジがチンといおうが、あまりに幸福そうなその眠りを、止める気配はなかった。 「まったく・・・」恵理子は、その少年の顔をみて、あきれたようにつぶやくのだが、そんなことをしている時間はない、今日はすでに15分も寝過ごしているのだ。 温まった牛乳を胃に流し込むと、体中が驚いて緊張し、ただそれで、ようやくエンジンがかかったような気がした。ユニットバスの洗面台で、歯を磨き、顔を洗い、ついでにその鏡で、さっと髪型を整えた。部屋にもどって、押入れのハンガーから着替えを取り出す、勢いよくパジャマを脱ぎ捨て、寝汗をかいた下着も全て取り替えた。そしてまた、ユニットバスに駆け戻り、今度はメイクを整える、と、思い出した、さっき着替えた部屋には、確か年頃の男の子が寝ていたはずなのだが・・・「ま、平気だろ・・・」恵理子はニガ笑いをうかべて、「気をつけろ!」と、自分に言い聞かせた。ここまで、ざっと20分、いつもより10分は早い、やればできるものだ。ハンドバッグを手に、家を出ていこうとした恵理子は、「あっ、どうしよう・・・」と、一瞬立ち止まった。恵理子は、この部屋の合鍵を持っていなかった。少し考えて、キーホルダーから、部屋のカギを外す。それをテーブルの上に置き、その下に「出て行くときは、カギをかけて、外の植木鉢の下に隠しておくこと!」とメモを書き残して、「仕方ないか・・・」玄関のカギをかけずに、仕事へと出かけていった。これだけの騒ぎの中でも、少年はまだ、眠り続けていた。 恵理子の仕事は、朝の6時から始まる。と、いっても、まさかそんな時間から、花屋が開店するはずもなく、この6時というのは、店長が仕入れの為に、市場へと車を出す時間だった。恵理子は店長に「勉強になるから」といわれ、その助手役を買って出ていた。ただ、仕入れの助手というのは、「どこが勉強じゃ」と言わんばかり、力仕事の連続であり、全ての花を軽ワゴンに積み込む頃には、全身汗まみれになっていることもめずらしくなかった。市場から帰って8時30分、そこから10時の開店に向けて、その花を店中に並べていく。店長はその間、予約の入っている花束の製作に取り掛かっている。9時半になると、パートタイムの女性も加わって、いよいよ本格的な開店準備、シャッターが開けられ、店頭にも、たくさんの花が並べられていく、ショーケースのガラスを磨き、店頭に水を撒くころになると、通りすがりの主婦らが、早くもその花々に足を止めたりしている。こうして、一応10時開店ということになってはいたが、そのあたりアバウトに開店してしまうのが、いつものパターンになっていた。 店長は日中、配達に出ていることが多く、店番は恵理子とパートの女性、この2人に任されていた。恵理子も、簡単な花束なら、作らせてもらえている。お客様の目的や予算などにあわせて、季節や天候、色合い、また、花言葉なども意識して、1つ1つ丁寧に配置していく作業は、花屋の店員として、もっとも充実感のある時間の1つだった。食事休憩は1時間、外に食べに行っても、買い込んできて、事務所で食べても良いことになっていたが、外食店に1人で入ることが苦手な恵理子は、弁当を買ってくることが多かった。午後3時に、もう1人のアルバイト、中国人留学生の女の子がやってきて、彼女と交代するように、恵理子の仕事は、午後4時で開放となる。この後は、例によって日課の買い物に出かけて、そこで夕食の材料や生活品、それと100円ケーキを買って、家に帰るのだが、この日は、なにか予感めいたものがあって、そのケーキを2つ買った。 アパートに着くと、恵理子は植木鉢を持ち上げてみた。カギは置かれていない。仕方なくドアノブを引くと、カギはかかっていなかった。テーブルには、朝のままの状態でカギとメモ書きが残されていたが、少年の姿はなかった。 「あの野郎、メモ読んでないのかよ・・・」恵理子がぼやくと、「読んだよ!」と、どこかから声がする。ユニットバスから、トイレの水が流れる音がして、パジャマを着たままの少年が出てきた。 「出て行くときは、植木鉢の下に、だろ、ちゃんと読んだよ」 「だったらなんで」「だからあ」少年はまだ眠そうな目をしていた。 「出て行くなら、だろ、おれは出ていかないから、カギも植木鉢の下には無いんだ」 「うん、なるほど・・・」恵理子はうなずいてから、「って、なるほどじゃねえよ!」 「お前、まさか、今日も泊まるつもりか・・・?」 「俺がいると、迷惑か?」少年は、淋しそうな目で恵理子を見つめる。 「迷惑って、そんなことねえけど・・・」 「だったら、おねがい、な? ほら、晩飯なら、俺が作ってやるから、うまいんだぞ!」 「条件がある」あきれてモノが言えない恵理子にも、一言だけ言っておきたいことがあった。「頼むから、今夜はベッドに寝かしてくれ・・・」 少年は大きくうなずき、「で、何買ってきたんだよ」と、恵理子の買い物袋をあさり始めた。 少年の作る夕食は、確かに驚くほどの出来栄えだった。同じ台所で、しかも、材料は全て恵理子が買ってきたものなのに、どうしてこうも違ったものができるのだろう。恵理子に美味いと誉められ、少年も得意げな顔を浮かべる。ただ1点、彼の料理に難をつけるならば、それが軽く4人前はあろうかという大量であり、しかも、そのほとんどを彼が平らげてしまったということだろう。この野郎、食費はどうしてくれるんだ、そういいたげな恵理子の気持ちを知ってか知らずか、少年は食後の100円ケーキも、あっという間に平らげてしまった。 つづく |