「続・リップスティック 〜 それぞれの場所へ 〜」

   8 悩み事

 人の家には、それぞれに、独特の匂いがある。何の?と訊かれて、説明できる場合も、できない場合もあるが、この家の場合は、それが油絵の具と溶剤の匂いだと、誰にでもはっきりとわかる。時に家主は、それに気付かないことも多いのだが、それが、家の外まで漂ってくるのなら、気付かないというのは、ちょっと考え物ではないだろうか。家に近づくほどに強くなるその匂いは、仕事から帰ってきた有明藍(ありあけ・あい)がアパートの玄関を空けた瞬間、生暖かい風に乗って、一気に外に溢れ出してきた。
「ちょ、ちょっと悠さん、すっごい臭いだよ」
「ん? ああ、そうか・・・」筆を走らせる手を止めて、イーゼルに向かっていた有明悠(ありあけ・ゆう)は、ゆっくりと藍の方に振り向いた。
「ああ、そうか、じゃないって、絶対、体に良くないからね、これ」
そういいながら、藍は家中の窓を開けて回っている。
「いや、でもね、風が入ると、絵の具が乾いちゃったりするわけで・・・」
「だからって、ここは悠さん一人で住んでるわけじゃないんだから、ね、シュウ?」
「ダァ」「ニャア」同意の声が2ヶ所からあがる。「ほら、賛成多数だ」
「はい、気をつけます!」「わかれば、よろしい」2人の顔に、笑顔が戻った。
「で、そろそろ、いいかな・・・」と、音を立てないようにそ〜っと窓を閉めている悠に、藍はやれやれ、といった表情を浮かべながら、窓を閉めに向かい、振り向いて「バカ絵描き」と、笑って吐き捨てた。

 悠が再び、絵筆を握ったのは、つい、半年ほど前のことだった。彼の知り合いが経営する画廊、その3階の一室を使って、日曜絵画教室を開く、という企画があり、彼はその講師として招かれたのだった。僕は、人に教えるようなことはできませんから、と、最初は頑なに拒んだ悠だったが、画廊のオーナーの、強い推薦と、その画廊に飾ってある悠の絵を見た生徒たちからの熱望もあり、ついに彼は、首を縦に振ったのだった。
「本当は、彼にもう一度、絵を書いてもらいたかっただけなのかもしれないな・・・」
いつか藍は、そのオーナー、小泉章吾(こいずみ・しょうご)から、そう聞いたことがある。藍もまた、同じ思いだった。だが、よもやこんなに入れ込んでしまうとは、藍も、小泉も、そして悠自身ですらも、まったく予想できない事態だった。

 一方で、藍は、私設の保育所で、保母の仕事をしていた。仕事は、朝の7時から、夕方の4時まで、朝が早い代わりに、土日はきっちりと休みがもらえた。最近は、親の仕事や家庭事情の多様化もあり、その保育所も、24時間体制で、子供を預かれる環境を維持していた。子供はできるだけ、手元に置いて育てた方がいい、というのは、藍も理解しているが、それでも、どうしてもできない場合もある。だからこそこうして、できる限りの暖かい環境で、子供たちを迎えてやるのが、藍の仕事であるし、実際、藍ですら、シュウを悠に預けたまま、こうして働きに出ているのだから、あまり人のことを言えたものではない。
 あ、ところで、紹介が遅れてしまったようだ。先ほど、藍の意見に賛成してくれた、2つのシュウくん。一方は、ご存知、ネコのシュウくんであるが、もう一方、ネコより2まわりほど大きいその男の子は、今年の冬、2人の間に生まれた子供である。長男なのに、なぜか「朱二(しゅうじ)」と名付けられた彼も、まもなく、4ヶ月をむかえようとしていた。
 最近の藍は、インターネットにはまっている。ウェブページの閲覧だけでは飽き足らず、2ヶ月ほど前から、自分でホームページの運営なども始めるようになった。「ドクター・アイの、お悩み会議室」と名付けられたそのページは、仕事、恋愛、友人関係、とにかくあらゆる悩み事をメールで受け付け、その中から藍が選んだ1つの相談を掲示板に貼り出し、みんなでそれを、1週間かけてディスカッションしながら解決していこう、という企画だ。
 先週のテーマは、ある15才の女の子から寄せられた、高校受験に関する悩み事。将来のことも考えて、大学の付属高校に通いたいと思っているのだが、父親の仕事がうまくいってなくて、私立高校には通えないかもしれない、といった内容だった。これに対して、掲示板には、様々な意見が寄せられた。公立からでも大学は狙える、とにかく親に志望を伝えるべきだ、奨学金を使ってはどうか、エスカレーターの高校なんてロクなところじゃない(経験者^^)、私立のほうが制服がカワイイよ、コラコラそんな次元じゃないだろう、今時新聞配達なんて無いのかな、自分の問題なんだから親のせいにするのはよくない、うちにくる牛乳配達は、どうみても高校生くらいだよ、オジサンはカワイイ制服のほうが好きだなあ、とまあ、話は本人を置き去りにして、どんどん関係ない方向へ行ってしまうのがいつものパターンではあるのだが、このサイトの特徴は、決して結論を出さないことだった。最終日には、質問者が「ありがとうございました」と書き込んで、話はそこで終わる、これが、暗黙のルールになっていた。
「これって、役に立ってるのかなあ・・・」藍は最初、疑問に思ったのだが、悠に言わせれば、
「解決する、しないは、問題じゃない、大事なのは、悩み事を誰かに打ち明けることなんだ。つまり、みんなの悩みを、藍がメールで受け取った時点で、すでに問題の大部分は解決しているんじゃないかな」となる。うん、なるほど、その意見には、藍も納得がいった。
「さて、今日もメールが来てるかな?」と、受信ボタンをおすと、6通のメールが届けられた。お悩みが2件、情報配信が2件と、メーリングリストが1件、そして・・・
「あっれ、恵理子からだ、なになに・・・」
「ふ〜ん」と、少し考えてから「ねえ、今週は予定無かったよねえ?」「ああ」悠の返事を待って、カレンダーに印をつけた。
「会わせたい人ねえ、あの子、婚約者とか連れてこないだろうなあ」なにか新しいことが動き出すような気がする。藍は、久々にワクワクするような感覚を覚えた。

   つづく
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