「Sweet Lovesongs on LIPSTICK」  〜 Chapter1 真白編 〜

   1 プロローグ(1)

朝刊には、桜の開花予想が発表されていた。
今年は、例年より、少しだけ早く見頃になるらしい。
その他は、特に気になるニュースは無い、知らない芸能人が、知らない実業家と結婚しても、きっと私には、知らなくてもいいことだ。
ふうと大きくため息をついて、私はカウンターから立ち上がった。
家業の、小さなスナック。
朝の店内は、昨夜の喧騒をそのまま映し出すように、大きく乱れていた。まあ、これも、繁盛の証しなのだろう。
腕時計に目をやる。今日はまだ、時間がある。少しお店を片付けてから行こうか。
水仕事に備えて時計を外し、それをカウンターの一番見やすいところに置いた。
壁にも時計は掛かっているが、私は、その時計が嫌いだった。
常連のお客さんが、お店の改装記念にくれたもので、ガラス面に大きく記念の文字が書き込まれている。
記念品なら、ただ渡すだけでも、十分喜ばれると思う。自分を誇示するかのごとく書き込まれたその文字が、腹黒い政治家みたいにいやらしく思えた。
「祝・新装開店
 有限会社井川鉄工 代表取締役 井川善一」
井川善一、この直後、お母さんはこの人と再婚した。
新聞を四つにたたみ、黄ばんだマンガや雑誌の詰まったカラーボックスの上に乗せる。
昼にお母さんが読んで、夜はお客さんが読む。
仕事柄、ニュースにも強くなくてはならないのだけど、お母さんの興味は、おおよそ芸能ネタだ。政治や経済は、てんで疎い。
お母さんは、難しいニュースは、わからない方がいいのだと笑う。お客さんの演説に近い解説をゆっくりと聞いて、時々、そうね、と、笑ってうなずくくらいが一番いいのだと。
グラスや食器を流しに集めて、山盛りの吸殻を一斗缶に投げ入れた。
制服を腕まくりして、棚からぶら下がったエプロンを取ろうと手を伸ばすと、その影にママ専用のボトルが見えた。一昨日補充してあげたばかりなのに、もう半分以上なくなっている。
「無理しちゃって・・・」
また作らなくちゃね。片付けは中止!今日はこっちが優先だ。
鍋に水を張り、火にかける。
「・・・おはよう真白、早いのね」
お店と家を仕切るドアがゆっくりと開いて、お母さんがサンダルを引きずって出てきた。
「あ、おはよう。ごめんね、うるさかった?」
「ううん、なんか今日は目が覚めちゃったの」
そういいながらも、お母さんはひどく眠そうにしている。
「まだ寝てていいよ、ゆうべもおそかったんだから」
「うん、でも今日はもういいわ、たまには娘の登校でも見送ろうかしらね」
「ありがとっ」
お母さんはパジャマの上から半纏をはおり、カウンターに腰掛けて、さっきまで私が読んでいた新聞を開いた。
「またこれ、作っておくからね」ボトルを横に揺すると、お母さんは、それがあると助かるのよ、と嬉しそうに笑った。
「それにしても、ちょっと飲みすぎじゃない?」
火を止めて、沸いたお湯の中に、麦茶の粒を落とす。
「何か飲みやすくてね、ついつい進んじゃうのよ」
「それじゃ意味ないじゃない・・・」私の苦笑いにつられて、お母さんも恥ずかしそうに笑った。
ママ専用ボトル、お酒のようで、実はちょっと違う。焼酎と麦茶が、半々に混ぜてある。飲みやすくするために、グラニュ糖が少し、これはよく溶けるように、麦茶が熱いうちに入れる。冷めたら焼酎を入れ、もう一度、今度は水出しの麦茶パックを入れて、色を補う。ボトルに入れれば、見た目には普通のウイスキーのようで、でも、半々に割っても、2割5分で飲める。お酒が弱いお母さんのためにあみ出した、私の秘密兵器だ。
私は、全部麦茶でもいいと思うのだけれど、お母さんが、それじゃあお客さんに悪い気がするというので、一応、半分はお酒が入っている。
「よし、じゃ今度は流しを・・・」
「真白、もういいわ、時間でしょ」
「!」
「ほら、あとは私がやるから、早く行きなさい」
「あ、じゃ、お願い! あと冷めたら、焼酎とティーバッグ入れるだけだから!」
「わかったわかった、ほら、早く」
椅子の上にある通学カバンを引ったくる。
「じゃ、いってきます!」
「気をつけてね」「は〜い!」答えながら駆け出していく、と、背後からもう一度お母さんが私を呼ぶ声がする。
「ましろ〜! わすれもの〜!」
振り返ると、お母さんがテニスのラケットを大きく振っていた。慌てて駆け戻り、ラケットを受け取って、再び走り出す。
お母さんのやれやれという声が聞こえてくるようだ。
飲食街を飛び出し、商店街を横切ると、いきなり駅前通りにぶつかる。ここを折れれば、駅までは5分とかからないのだけれど、私は朝、寄るところがあるので、そうもいかない。
あいにくの信号待ち、大通りだから、無視して渡ることはできない。開店前のブティックのウィンドウに姿を映して、髪型をチェックする。だが・・・
「うわあ!」
何てこと、私はまだ、エプロンはつけているし、両腕は捲くってあるし、まるで魚屋さんのような格好をしていた。隣の若いサラリーマンが、こらえきれずに苦笑している。
「電車乗る前で良かった・・・」
エプロンを丸めてカバンに押し込むと、青信号ももどかしく、逃げるように再び走り出した。
「お母さん、気付いてよ〜!」

   つづく
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